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庭潤日記

植木屋の日々の出来事

雨ふり


植木屋が、お庭のお手入れの際、建物の雨樋の掃除をするのも一つの仕事である。

「とい」関西では「とゆ」多摩では「とよ」と言う。

「とゆも よう見ときやぁ」
木の葉が雨樋にたまり、雨水の流れを妨げないよう掃除をするのである。

今の時代、雨樋のない建物は稀な事であろう。
様々な訳があり雨樋が必要なのであろう。

うん。
はてさて、そこまで要るのであろうか。


今年は雨が多い

雨は雨で、また良いものだ

軒から滴る、雨だれを感じる

そんな今があっても良いんじゃないかなぁ











  1. 2020/10/09(金) 08:50:06|
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違和感


すごいものに出会った




違和感とは何か
和んでいない感じ。それぞれが揃っていない事

とても曖昧な感覚で、人によって、また時代によって随分と違うかもしれない。

例えば、私が小さい頃はプッシュフォン式電話や洋式便座は宜く無い様なことを
大人達が言っていたのを憶えている。
しかし今日この頃、和式便器やダイヤル式電話がビルのオフィスにあったら、きっと違和感がある事でしょう。

特急列車のグリーン席が満席園児だったら、どうだろうか
逆に幼稚園送迎バスが満席黒スーツ
真夏の海の家で芋煮会
書院造にベット
奈良公園にシンデレラ城
明治神宮表参道に建売戸建住宅

何だかおかしくなってきた

増上寺に東京タワー
こうなると微妙に変わってきます。

日本伝統による巨大木造建築と近代的巨大鉄骨建築、
これは本来なら、同じ景色の中で揃うはずもなく、全くの違和感でしょう。
しかし、ここは東京芝、
その為この違和感が、違和感でなくなり、
令和の時代に芝の価値を底上げしている様にさえ感じるのです。

昭和30年代のこの景色はどんな印象だったのだろうか。
もしかしたら違和感を感じたのかもしれない。

亀戸天神越しの圧倒的な巨大建造物東京スカイツリーはいかがなものでしょうか、
私は違和感を通り過ぎ恐怖心さへ感じてしまいます。

繰り返しますが、違和感とはその場の様々な環境、
また人それぞれの感じ方で、変わるものなのかもしれません。

昭和の時代、食事中のタバコは当然なものであり、
むしろ灰皿がない事が失礼にあたる場面もあったかもしれない、
しかし今
どこか遠くからタバコの匂いを感じても、
多くの人が強い違和感を感じることでしょう。

それが、
些細な違和感は刺激であり生きる楽しさに繋がっている様にも感じます。

机に向かって本を読んでいる時、ふっと米を炊く匂いを感じたらどうであろうか。

表を歩いている時、どこからともなくカレーの匂いを感じたらどうでああろうか。

電車の座席に座ってみると、少し向こうに様子の良い人が吊革につかまっていたらどうであろうか。


それは心が動く瞬間

別に違和感とは、悪い感情の事では無い、
その存在を指している、大小だけの事の様だ。

そしてその時の状態というのが、また大きく大切なことかもしれない。

何も無い壁がある
そこに邪魔をしない額が掛かる
その枠の中に絵が入っている

無である空間に絵画が入るのだ

そこに人は心を動かす

壁がうるさくては絵画は感じられない

そして絵が突飛していては強い違和感を感じる

モノを造り、演出する人間は、
そのバランスを追い求める





そして
私はとんでもないものに出会った

私自身の中から絶対に出せない取り合わせだ



私は、しばらくこの絶妙な違和感に心を奪われるであろう





























  1. 2020/09/30(水) 05:18:59|
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テレビ見て一句





おさな日の

芯の香りや

トンボかな
















  1. 2020/09/25(金) 04:24:59|
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すっきり



お彼岸の中日だ

雲ひとつない

明けの明星が輝いている









  1. 2020/09/22(火) 05:05:51|
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道とは歩いていくものである
道とは大切な物事を繋ぐものである
山道、街道、参道、習い事の道や人の道

よく聞く話だが、それには近道はなく、曲がりくねり登ったり下りたりする。

なぜだろう
それは大切だからである。大切なものを削ったり埋めたりしては道ではなくなる。
それだけのことじゃないか。



古い農村を歩く
山の縁を川が流れ、またそれに合わせ平らな所に田畑が耕され、場合によっては野を作る為、石が積まれている。
山の麓というのは、必ず出入りを繰り返している。
入り組んだ谷地は水が染み出し、湿気がある。
山水はそこから染み出し、次の谷へと集まり川になる。
そして山の張り出した、落ち着いたところに旧家があり、
そこから下ったところや、畑の端に新家が見える。
そして旧家より高い、土地の良いところにお寺があり、その奥に社がある。

道は田畑を巡り旧家へと続き、やがて社や寺に向かう。
山のなり、川のなりに合わせ巡っている。
時には山は崩れ川は溢れ人の命を奪う恐ろしい自然でもあるが、
本来、たくさんの生き物と同様、山や川がないと人も生きてはいけない。
そして人は集まり力を合わせないと、なかなか生きていくのは苦しいものだ。
そのために社寺がある。
その大切な、なりに合わせ道は巡る。

道は村から街へと向かう。
尾根道であったり、川伝いであったりしながら、街道につながり宿場町を通り、
街へと向かう。
その場その場の大切なモノのなりに合わせ、巡っている。

ところがどうであろう
現在、その様な道は見当たらない。

道は無くなり、真っ直ぐな道路になってしまった。
もしかしたら道路さえ使わなくなっているかもしれない。

何故だろうと考える

人が偉くなってしまった、人が大切になり、個人のなりで動いている。
目の前の大切なモノから目を背け、個人の都合でまっしぐらになっている様な気がする。

これで良いのかな
大丈夫なのかな

本当に大切なモノが見えなくなり、気にしなくて良いことを気にしている様にも感じる。

道はどこへ行ってしまったのか


曲がりくねった道を探す事にしようか















  1. 2020/09/15(火) 06:00:36|
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