今 まさに萌葱の時
武蔵野に浮かぶ森の梢は、まさに まさに、その時である
二月の始め、立春を過ぎると、森は すこーしずつ、水をあげてくる
その梢は、少しずつ 少しずつ、日に日に、赤みをおびて太くなって行く
そして 今 全力で若葉を吹き始める
どんなに寒が戻ろうが、誰もこれを止めることは出来ない
喜ぼうが 惜しもうが 春を止めることは出来ない
これはこれで、なんと せつなく 哀れなことであろうか
秋の散りゆく木の葉だけではない
二十年ほど前のこと
旅先で一人の同世代アメリカ人と出会った
名前も顔も忘れてしまったが、なんともせつない目をしていたことは覚えている
その彼は私に「哀れとは何か」と言うようなことを英語で尋ねてきた
「哀れって言ったら、みっともないことじゃねえか」と私は日本語で応えた
すると 何やら写真を見せながら
「日本のこう言うような情緒が好きなんだ」
と言うようなことを また英語で語ってきた
その写真の事も、今 覚えていないが、散りゆく情景が映し出されていたような気がする
そして そこにいた数名でそのことについて語り合った
あれから 二十年ほどすぎた
そして この今
この美しい春に この とりとめもない春に
わたしは 哀れびを感じている
- 2017/04/11(火) 19:04:26|
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「こんにちは」
小さな おんなの子の声が聞こえた
振り向くと小学校にあがったかどうかのおんなの子が一人で歩いていた
目が輝いている
私は裏通り沿いの生け垣を刈り込んでいた
「何してるんですか」
「何してると思う」
「ん〜 葉っぱを切ってるんですか」
「そうだよ」
「何でそうしてるんですか」
「伸びてきたからね、切ってるんだよ。髪の毛とか爪とか伸びてきたら切るでしょ。
同じだよ、ほら きれいになってきてるでしょ」
「へ〜 すごいですね こういう風にするんですね あ
ここに入っているのは何ですか」
私の腰に下げているハサミを取り出す勢いだ
「これはねえ 枝を切るハサミだよ ほら」
生け垣を刈っている手を止めて、一枝パチッと枝を切って見せた。
おんなの子は、目を まあるくしている
何だか不思議な子だ。
そのこは背が小さい、1年生ぐらいかな
だけども何だか えらくしっかりしている
「何年生ですか」
「まだ2年生です」
まだなのか、と思った
早く次に行きたいのかも知れない
知らないことをたくさん知って大人になりたくてしょうがないのかな
そんな感じがする
それにしても圧倒されるほどのエネルギーだ
どんどんふくれあがってくる
カシカシと進む、刈り込み鋏の中に飛び込んできそうな勢いだ
とうとう 手を伸ばしてきて、生け垣に触れ始めたので手を止めざるをえない
「この葉っぱは 何だかとげとげしていて、あ 痛い」
「そうだね ヒイラギモクセイって言う名前でね 葉っぱが、とげとげしているんだね」
「へ〜 こんな葉っぱもあるんですね すごいですね〜」
一間考えた
ヒイラギだから当たり前だと思っていた
「そうだねえ こんな葉っぱもあるんだね」
そうだよ こんな葉っぱもあるんだ。
急に何もかもが、新しく鮮やかに感じ始めた
この子にはあらゆる物や事が新しく、型なんかにまったくはまっていない
当たり前なんか無いんだ、すべての物が輝いて見えているのであろう
それが伝わってきた
同じような物がたくさんあるように見える
同じような事が繰り返されているような気がする
そんな事はない
すべてが新しく、そして輝いている
その子に教わった
「さようなら〜」
「さよなら」
過ぎ去った方を見ると
「こんにちは」
また 新しい何かがあるんだね
- 2016/07/10(日) 06:25:49|
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にわ というのは、ただ場であるようだ。
なので、取りつくろって意味など付ける必要はない。
建物が無くても にわは成り立つようだ。
そんなモノに出会えた
例えば 蹴鞠 舞 なんかがその様だ
大切な事は間のようだ
「ま」と呼んでも「あわい」と呼んでも良いかもしれない
現代人は欧米式の教育のおかげで、この間を取りにくくなっている
私もその中にいる
その間はこれと言って確かな目指す物であったり指揮者がいる訳でもなさそうだ
現代人には、あいまいで実に分かりにくい
それに拍子の取り方や動きも、テレビに出て来る物とは違う。
少し戸惑いがあるが、いやいや実に心地が良い物だ
血が感じるのであろう
10年ほど前のこと在来工法で木造の建物と庭をやっているときの話
家の前を人たちがたくさん通り過ぎていく
働き盛りの人たちは目もくれず駅を急ぐ
子ども達はちょろちょろと、その 場を歩いて行く
そして
「あーー、かっこいいーー、おれこんないえにすみたいなあ」
それが一人二人のかわりものの子だけと言う訳ではない
びっくりした。血で間を感じているのであろう
働き盛りの人たちは、意味のないことに意味を付け目標という物を持ってしまったので、
この 場にいなくなってしまっているが、意味を忘れれば
この間を心地良く感じるのであろう
血というモノはそう簡単には薄まらなそうである
子ども達が教えてくれた
せっかく生まれてきたんだ、この国にね
この 場で、間と言うヤツに慣れ親しんでいこうと思う
- 2016/03/14(月) 13:30:03|
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私は植木屋を生業としています
植木屋とは、お庭の手入れはもちろんですが、庭造りもします
さて 庭造りとは
天台宗の古いお寺さん、深大寺があります
あたりは、森があり水があり 畑があり、住まいがそれほど多くなくあります
そこに深田真工房さんが建てた家があります
私は今、その庭仕事をしているのです。
仕事をしていると、お寺から太鼓の音 法螺貝 鐘の音が聞こえてくるとても静かなところです
現場は裏露地ですが、ご近所の方なのかお参りの方なのか、ときおり通りを過ぎていきます
いや、過ぎていかず、立ち止まってくれるのです
そして ありがたいことに関心を寄せてくれて、声をかけてくれるのです
先日のこと、
「いや〜 本格ですね」
「いや だいたいですよ。
ほら こんなとこはみ出しちゃって、だいたいですよ。
私は植木屋ですからね」
「じゃあ 庭も造ってるんですか」
「ん、いや これが庭です、私がやってるんですよ」
「えっ、そうですよね。えっ、植木屋さんが土塀作るんですか」
「そうです 植木屋の仕事ですよ。だからほら だいたいですよ」
困っていました。
そうかも知れません、でも本来 土塀も庭仕事なのです。
植木屋の仕事は百姓仕事
お百姓さんは、すごいです
宇和島湾の先に遊子という所がある
そこに絶壁のような段畑がある
そこを通りかかったとき 当時、大正生まれのお百姓さんが段畑の石積みを積み替えていた
「すごいですねえ」
「すごいもんとちがう 普通で」
山陽と山陰の中程 広島県の庄原あたりだったかな
山間の畑の中に小屋がたっていた
なんともその景色に溶け込んでいる
真っ直ぐとは言えない山から出してきたであろう丸太で組んでいて
その辺から集めてきたであろう玉石が、土壁の腰の中頃まで積み上げられている
野良仕事をしているおばあちゃんがいた
私は畑の畦を走っていき
「すごいですねえこの小屋」
「なにがぁ こんなもん」
奈良には土塀がたくさんある
穴師と言うところがある
土塀越しの畑で野良仕事をしているおじいさんがいた
「昔は こんなモン下地は自分らあでしたもんやで、仕上げだけ職人さんにしてもおたもんや」
お百姓さんはすごい
何でも出来る
石も積むし 材木も組むし 壁も塗る
縄もなうし 山も切るであろう
私達植木屋は、そんなかけらを庭の中で行う
私はそれを生業として、ごはんをいただいているのです。
- 2015/03/23(月) 20:50:20|
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やっと言葉に出す気になった
もう2年が過ぎる
問答と言うには、だいそれていておこがましいことではあるが、そう題付けさせてもらう。
平成24年4月の終わり事だ
世間ではゴールデンウィークが始まるころ、
私は禅宗の修行道場 福應山仏国寺にいた
生まれて初めての寺での生活、身も心も、日常 俗世とかけ離れてしまったような感じがする。
後も先もなく、今だけの生き方。そこには何のしがらみもない。
自分がどこで生まれ育ったのかも、忘れてしまいそうな気になる。
見るもの 感じるものが、あまりにも新鮮でいて、そしてなつかしい
小さな子どもの頃のように時間が流れていく
何のノルマもない、ただひたすらにがんばる
私は何も知らずにここにやってきた訳だが、修行僧達とのそんな行いが一週間ほど過ぎた。
いや 実感としては、はるかに一ヶ月、、数ヶ月をとうに過ぎていた。
そして
いったん帰る日となったときのことである。
その前日
「明日は 粥坐の後、行茶がありますが、塩野さん間に合うようでしたら御一緒にいかがですか。老師様に何か聞きたいことがあれば伺えるかも知れません。」
とお寺の方にお誘いをいただいた。
粥坐とは、朝の粥をいただく行のこと
行茶は 抹茶を行ずること
ありがたいお誘いに、是非にと受けさせてもらった
そうか、何か質問できるのか
たくさんのことが頭に浮かんだ。
たくさんたくさん浮かんできたが、結局の所あまりにも取りつくろった興味本位のことばかりで、
自分で考えるしかないと結論が浮かんでしまった。
そう思うと 特に質問することが無くなってしまったような気がした。
しかししかし しかしである
そもそもまったく分からないことがあった。
この人達 修行僧はいったい何をやっているのであろうか
坐禅とは何なんだ。
とにかく、修行道場と言うところは ほとんど無言だ
ましてや坐禅ともなると、けはいさえも消えて無くなる
これは 今までまったく感じたことのない感覚である。
十数名の修行僧がそこにいるにもかかわらず、ただの一人のけはいさえ、消えて無くなっているのだから
これは 人の域では無いと感じたのだ。
何なんだ この坐禅というものは
まったくもって何をやっているのか見当も付かない
うん。 これは聞いてしまうしか他にないな
真剣に行っている方々に大変に失礼ではあるが、二度と無い機会であろう
その日、いよいよ行茶が始まった
広間の両端に、十数名の修行僧が並んで正座する
私もその中に座らせていただく
上座に席が支度されている
下座に手前座があり、お茶を点てる方、お運びをされる方で支度が調っていた
ふすまが開いた
ゆっくりと 御老師様が部屋に入ってこられて、上座に着いた
菓子と薄茶を音無く、そしてありがたくいただく
原田湛玄老師様
悟りを開かれている本物の和尚様
その時の雰囲気を私のようなものが、これ以上言葉にする訳には行かない。
なにやらお話しになった後
ゆっくりとどっしりとした調子で
「 どなたか どなたか 伺いたいことがあれば 聞きたいことがあれば
どなたか どなたか ・・・
私の列の上座で修行僧の上の方が、目で言われた
(塩野さん今ですよ)
向かいの列の上座で副住職様も無言で
(どうぞ、、どうぞ)
と言っておられる
「はい。」手をあげた
「この度 ありがたいご縁で土塀造りではありますが、この修行道場に来られたことを大変うれしく思います。
私は、こちらのことをまったく知らずにここに参りました。そして坐禅も御一緒にさせてもらいました。
大変失礼なことを伺います、みなさん何の為に坐禅をやっているのですか。」
ドキドキした
何とも表現のしようのない無の時が流れた
ゆったりと どっしりと 御老師様のお言葉が出てきた
「 ふつふつと ふつふつと 本当の自分に気づく為に やっているのです
ふつふつと ふつふつと
ありがたい ありがたい ひたすらにありがたかった。
しかし意味はわからない。
『本当の自分』
なんだ それ。
二年間考えた
そんなもんじゃ見当も付かない
最近聞いた話だが、普段は
『本来の自己』と言うらしい
私に分かりやすいよう 本当の自分 と言ってくだすったのであろう。
『直心』『大心』 みな同じ事だそうだ
間違っても、「自分本来」 とか 「自分を信じる」と言うことでは無い事は分かるような気がする。
本当の自分 俺にわかるのかな
私は、庭の中で、植木屋と言う方便の中で、
本当の自分に気づく道を与えられたのかも知れない
やっぱりな
土塀を作り来た訳じゃなかったんだな
なんか 違うような気がしてたんだ
二年が過ぎ 今になり、そう思う様になった
さあてと
今は何だか分からないけれど 一歩ずつだ
- 2014/07/10(木) 17:06:33|
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