小浜の夏も暑い
山水が涸れかけている。
干上がり始めた池の蓮の花に見送られながら 仏国寺をあとにして家に戻ってきた。
土塀を造り 坐禅を組む
当たり前の日々がすぎていた。 ただただ
今回で3度目、いつのまにか 振り返るとお寺で過ごす事に違和感が無くなってきている。
といっても私は修行僧ではない、植木屋であり土塀を作る事でこのお寺に来ているので
朝課や晩課のお経 雑巾がけ 朝晩の坐禅 托鉢 などの厳しい修行はしてはいない。
そのかわり土塀に立ち向かっている。
お経や梵鐘の音を聞きながら、修行僧達と数人の庭仲間とともに
そして晩 少しばかり座らせてもらう。
坐禅
これはとんでもない修行だと、今回 思い始めた。
曹洞宗の修行はとにかくすわる事らしい
壁に向かって座る
足を組み姿勢を正す
鼻から息を出しまた鼻から吸い腹の底まで息をおとす。
われわれ植木屋の仕事は色々な事をする
植木の手入れから庭造り
地面にスコップで穴を掘る事も多い。
庭の中に、時には大きな深い穴を掘る事もある。
平らな地面にスコップの先が一発はいる、
掘り進んでいくと穴が すねのあたりまで来る、膝、腰まで、
腰のあたりまで来る頃には、もう何も考えていない。
だらだらと 今夜の事でも考えながら掘っているとかえってかったるい。
自分の頭がかくれる頃にはほとんど虫のようになっている。
そとで見ていたりすると面白い、
「あー あいつ虫になっちゃったよ」
なんて
姿が見えないけど、穴の中から土だけが ポッ ポッ と飛んでくる。
本人は気がついていない無我夢中だから。
坐禅も無我夢中で必死にやらなければ行けないのかもしれない。
ところが大変な事に何もしていない。
穴掘りは作業だ。体を動かす事で大変だけど夢中になれる。
座る事は体を動かしていない、何にもしていない、夢中になる向きが定まらない。
「坐禅というのは、黙々と何もしない事なんですか?」
「違います、黙々と座るんです」
座る事らしい。
何も作らず、次の構想も練らず、もちろん遊ぶ事も考えず
ひたすらに黙々と一生懸命に座る、 たぶん。
とうてい 今の私には分かりません。
だけど とんでもない事です。
坐禅と土塀
安諸定男親方は私にとんでもない現場を与えてくれました。
そしてお寺は私にとんでもない事を与えてくれています。
大事に日々を送らなければもったいない
日が昇り 日が沈む
ひたすらに今日を過ごし
また明日が来る
すべて ありがたい事です
- 2012/08/11(土) 11:13:43|
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