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庭潤日記

植木屋の日々の出来事

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問答

やっと言葉に出す気になった

もう2年が過ぎる

問答と言うには、だいそれていておこがましいことではあるが、そう題付けさせてもらう。


 

平成24年4月の終わり事だ

世間ではゴールデンウィークが始まるころ、

私は禅宗の修行道場 福應山仏国寺にいた

生まれて初めての寺での生活、身も心も、日常 俗世とかけ離れてしまったような感じがする。

後も先もなく、今だけの生き方。そこには何のしがらみもない。

自分がどこで生まれ育ったのかも、忘れてしまいそうな気になる。

見るもの 感じるものが、あまりにも新鮮でいて、そしてなつかしい

小さな子どもの頃のように時間が流れていく

何のノルマもない、ただひたすらにがんばる

私は何も知らずにここにやってきた訳だが、修行僧達とのそんな行いが一週間ほど過ぎた。

いや 実感としては、はるかに一ヶ月、、数ヶ月をとうに過ぎていた。


そして
いったん帰る日となったときのことである。


その前日

「明日は 粥坐の後、行茶がありますが、塩野さん間に合うようでしたら御一緒にいかがですか。老師様に何か聞きたいことがあれば伺えるかも知れません。」

とお寺の方にお誘いをいただいた。

粥坐とは、朝の粥をいただく行のこと

行茶は 抹茶を行ずること

ありがたいお誘いに、是非にと受けさせてもらった

そうか、何か質問できるのか

たくさんのことが頭に浮かんだ。

たくさんたくさん浮かんできたが、結局の所あまりにも取りつくろった興味本位のことばかりで、

自分で考えるしかないと結論が浮かんでしまった。

そう思うと 特に質問することが無くなってしまったような気がした。


しかししかし しかしである

そもそもまったく分からないことがあった。


この人達 修行僧はいったい何をやっているのであろうか

坐禅とは何なんだ。


とにかく、修行道場と言うところは ほとんど無言だ

ましてや坐禅ともなると、けはいさえも消えて無くなる

これは 今までまったく感じたことのない感覚である。

十数名の修行僧がそこにいるにもかかわらず、ただの一人のけはいさえ、消えて無くなっているのだから

これは 人の域では無いと感じたのだ。


何なんだ この坐禅というものは

まったくもって何をやっているのか見当も付かない


うん。 これは聞いてしまうしか他にないな

真剣に行っている方々に大変に失礼ではあるが、二度と無い機会であろう



その日、いよいよ行茶が始まった

広間の両端に、十数名の修行僧が並んで正座する

私もその中に座らせていただく

上座に席が支度されている

下座に手前座があり、お茶を点てる方、お運びをされる方で支度が調っていた

ふすまが開いた

ゆっくりと 御老師様が部屋に入ってこられて、上座に着いた

菓子と薄茶を音無く、そしてありがたくいただく


原田湛玄老師様


悟りを開かれている本物の和尚様

その時の雰囲気を私のようなものが、これ以上言葉にする訳には行かない。


なにやらお話しになった後

ゆっくりとどっしりとした調子で

「 どなたか   どなたか   伺いたいことがあれば   聞きたいことがあれば
  どなたか   どなたか  ・・・

私の列の上座で修行僧の上の方が、目で言われた

(塩野さん今ですよ)

向かいの列の上座で副住職様も無言で

(どうぞ、、どうぞ)

と言っておられる


「はい。」手をあげた

「この度 ありがたいご縁で土塀造りではありますが、この修行道場に来られたことを大変うれしく思います。
私は、こちらのことをまったく知らずにここに参りました。そして坐禅も御一緒にさせてもらいました。
大変失礼なことを伺います、みなさん何の為に坐禅をやっているのですか。」


ドキドキした


何とも表現のしようのない無の時が流れた

ゆったりと どっしりと 御老師様のお言葉が出てきた



「  ふつふつと      ふつふつと     本当の自分に気づく為に やっているのです

   ふつふつと      ふつふつと    



ありがたい ありがたい  ひたすらにありがたかった。

しかし意味はわからない。

『本当の自分』

なんだ それ。


二年間考えた 

そんなもんじゃ見当も付かない

最近聞いた話だが、普段は

『本来の自己』と言うらしい

私に分かりやすいよう 本当の自分 と言ってくだすったのであろう。

『直心』『大心』 みな同じ事だそうだ


間違っても、「自分本来」 とか 「自分を信じる」と言うことでは無い事は分かるような気がする。


本当の自分  俺にわかるのかな


私は、庭の中で、植木屋と言う方便の中で、

本当の自分に気づく道を与えられたのかも知れない



やっぱりな

土塀を作り来た訳じゃなかったんだな

なんか 違うような気がしてたんだ

二年が過ぎ 今になり、そう思う様になった




さあてと

今は何だか分からないけれど 一歩ずつだ
















  1. 2014/07/10(木) 17:06:33|
  2. 思い|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2
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コメント

  1. 2014/07/14(月) 21:49:21 |
  2. URL |
  3. あたらし #-
  4. [ 編集]
偶然にも晃岳さんからお手紙をいただき拝読したばかりです

「ただただ今を生きる」

私が振り返る仏国寺の日々です

塩のさんも同じような事を書いていて共感しました

2年経った今、私は過去から未来までを雑に行き来して生きています

あの感覚からはずいぶんと離れてしまいました

晃岳さんの墨書を見ていてそう感じました

また振り出しに戻ってしまいました
  1. 2014/07/17(木) 17:16:22 |
  2. URL |
  3. しおの #-
  4. [ 編集]
そうですよね
普段は飲んだくれのいい加減で、
反省するばかりです
7月に入ってからお粥を頂に仏国寺に行って参りました。
振り出しに戻れる場所が俺たちにはありますね。

ほんとうに、ありがたいことです


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