文化とは共感である
先日、ある講座を受けてきた
数寄者の庭園講座だ、普通では拝見することの出来ない大邸宅
明治時代に建てられた邸宅で、建物も庭も夢の世界だ
広大な敷地に伸びやかな日本建築
日本の建築 庭を学ぶ者でなくとも心を打たれてしまうであろう
そんな中、何の違和感もない完璧な空間の一角に、とてつもなくアクの強い場所が現れた
その場をしつらえた作家職人が説明をしていた
何でこんな風にしてしまったのであろう。私は息苦しくて、その気を感じぬよう そっぽを向いていた
それだけ見ればすばらしい物だと思うが、この景色に全くそぐわないのではないだろうか
意味がわからず、全く持って気分が悪くなった。ついでにその作家職人に対しても気分が悪くなる
見学が終わり、教室で講義となる
その作家職人も出てきた
何を話すんだか変に興味が出る
「私が監修の先生から、今回のお話しをいただいたときに驚きましたが、ひとつやってやろうという気になりました。
私の存在を示す、残す大きな時・・・」
そのまんまじゃねえか、本人そのものが出すぎだ
「実はこう言うことをこんな場で申し上げるのもどうかと思いますが、必死に作りその場におさめたら、私はこれで良かったのかと言う気になりました。自分が出過ぎている。先生はこれで良いのですよとおっしゃいましたが、私は今もそう感じています。」
この人は気が付いていたんだ 苦しんでいるんだ
こちら側と同じ一人の人なんだ
しかもこんな大勢の場で発表している
勝手な話だが、一気に親しみが湧いてきた
明治期に施主を始めたくさんの人の思いで 邸宅が建てられ、太平洋戦争を乗り越え、持ち主を変えながら、今ここにある
そして また新たに化粧をされ、時を重ねていく
そこには 様々な思いも重ねられていく
苦しみ 感激を
あの場所が良い物なのかは、私には今も良くわからないが
今 私は大いに共感をする
まさに あの場の思いこそが、日本の文化 そのものなのではないだろうか
- 2017/09/24(日) 00:00:00|
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