道とは歩いていくものである
道とは大切な物事を繋ぐものである
山道、街道、参道、習い事の道や人の道
よく聞く話だが、それには近道はなく、曲がりくねり登ったり下りたりする。
なぜだろう
それは大切だからである。大切なものを削ったり埋めたりしては道ではなくなる。
それだけのことじゃないか。
古い農村を歩く
山の縁を川が流れ、またそれに合わせ平らな所に田畑が耕され、場合によっては野を作る為、石が積まれている。
山の麓というのは、必ず出入りを繰り返している。
入り組んだ谷地は水が染み出し、湿気がある。
山水はそこから染み出し、次の谷へと集まり川になる。
そして山の張り出した、落ち着いたところに旧家があり、
そこから下ったところや、畑の端に新家が見える。
そして旧家より高い、土地の良いところにお寺があり、その奥に社がある。
道は田畑を巡り旧家へと続き、やがて社や寺に向かう。
山のなり、川のなりに合わせ巡っている。
時には山は崩れ川は溢れ人の命を奪う恐ろしい自然でもあるが、
本来、たくさんの生き物と同様、山や川がないと人も生きてはいけない。
そして人は集まり力を合わせないと、なかなか生きていくのは苦しいものだ。
そのために社寺がある。
その大切な、なりに合わせ道は巡る。
道は村から街へと向かう。
尾根道であったり、川伝いであったりしながら、街道につながり宿場町を通り、
街へと向かう。
その場その場の大切なモノのなりに合わせ、巡っている。
ところがどうであろう
現在、その様な道は見当たらない。
道は無くなり、真っ直ぐな道路になってしまった。
もしかしたら道路さえ使わなくなっているかもしれない。
何故だろうと考える
人が偉くなってしまった、人が大切になり、個人のなりで動いている。
目の前の大切なモノから目を背け、個人の都合でまっしぐらになっている様な気がする。
これで良いのかな
大丈夫なのかな
本当に大切なモノが見えなくなり、気にしなくて良いことを気にしている様にも感じる。
道はどこへ行ってしまったのか
曲がりくねった道を探す事にしようか
- 2020/09/15(火) 06:00:36|
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